ナルシシズムの保存――『グラン・トリノ』と『イノセンス』

昨日『グラン・トリノ』と『イノセンス』の比較を少ししたけれど、それを語るなら「ナルシシズム」というものに焦点を合わせるべきだよなーと思ったのでちょい補足。
以下両方についてネタバレ全開なので注意。


イノセンス』はまさに押井守ナルシシズムの結晶(=マスターベーション)だったわけだ。『イノセンス』は人形というものがテーマで、バトーを主人公とするハードボイルド的な形式で構成された物語だが、「人形愛=ナルシシズム」という定式は澁澤龍彦以来常識だろうし、またハードボイルドというジャンルが孕みがちな主人公のナルシシズムについても色々既に語られているはず。しかもラストで超越的な存在である素子が人形の姿でバトーを完全に受け入れてくれる。これをマスターベーションと言わずしてなんであろうか。
まあ『イノセンス』についてそういうことは多分既によく言われていることだろう(つーか僕もいつか言った気がする)。


さて、一方の『グラン・トリノ』についてだが、やっぱり爺さんのナルシシズムというものは話の焦点になっている。ナルシシズムが人形への偏愛に仮託された『イノセンス』に対して、この作品では爺さんが長年大事にしてきたグラン・トリノという車が彼のナルシシズムの外形化なわけだ。この作品のストーリーの中心は偏屈爺さんとその隣の家に住む内気な少年との交流、そしてその過程における両者の変化(成長)なのだが、二人の交流がグラン・トリノを少年が盗もうとするところから始まり、最終的に爺さんの遺言で車を少年に譲り渡すところで終わることは極めて示唆的だ。
つまり最後までナルシシズムに閉じこもった『イノセンス』に対し、自らのナルシシズムの結晶を他人に譲り渡す(=他者を受け入れる)のが『グラン・トリノ』と、さしあたりまとめることはできそうだ。


しかし、やはり自らの死によって少年やその家族を救おうとした爺さんの行為はやはりナルシスティックに思えるわな。やっぱりそれがハードボイルドの本質なのか。格好つけすぎだよ、爺さん。グラン・トリノを自分の最も親密な人間に与えることもある意味ナルシシズムの保存と言えるんじゃないか。他者を受け入れることってのは同時に他者を乗っ取ることでもある、みたいな。


というわけで結論としてはナルシシズムという観点から見た場合、『イノセンス』と『グラン・トリノ』は一見対照的なようで、実は経路は違えど目指す場所(ナルシシズムの保存)は同じなんじゃね? てことで。
グラン・トリノがチンピラ達に報復として壊されるという展開でも良さそうなもんだけど、あの車は最後まで美しい状態のままなんだよね。