キャラと声優

声グラ』でのよしこもり氏による『PERSONA -trinity soul-』レビューは非常に示唆的だなあ。評価のポイントがずれてるとは思うけど。
よしこもり氏は「声/芝居がキャラのキャラ性を保つ上で果たす役割が、決してクリティカルなものではない」という固定観念が存在するという。そして『ペルソナ』はその固定観念に反して、声優(沢城みゆき)の演じ分けこそが同じ身体を持つ二人のキャラ(神郷洵・神郷結祈)の固有性を成立させているとし、「キャラと声優の一対一対応」を揺るがせたことを評価している。
しかし声優交代によって騒動が起きるのがそれほど珍しくない現在、キャラの同一性が声優の演技の効果よりはるかに揺るぎないという固定観念なんて存在しないのではないか。むしろ声優の同一性がキャラの同一性を保証するという見解こそが現在優勢なのではないか。
どちらにせよ、単に「キャラ>声優」という序列を「声優>キャラ」へと反転させただけなら大して面白い話ではない。第一同じ作品内で一人の声優が複数のキャラを演じることは珍しくないので、『ペルソナ』の特異性の説明になっていない。
『ペルソナ』評価の力点はむしろ沢城の演技の微妙な差異が洵と結祈という二人のキャラを生成したこと、つまりミクロな差異がマクロな差異へと拡大したことに置かれるべきだろう。熱力学における相転移みたいなもの。
それが可能なのは恐らく沢城が男の子と女の子の境界線上の声を持っているから(境界上に立つことは境界を行き来するよりもはるかに稀有な才能だろう)。