サブカルチャー批評誌『5M Vol.3』


 12月6日大田区産業プラザPiOで開催される文学フリマにおいて、サブカルチャー批評誌『5M Vol.3』(発行:サークルファイブエム、頒価:500円)を委託頒布します。委託先は「ぼっちーず」(ブース:R-5)です。
 なお第二号までは『5M』発起人である坂下大吾が編集を担当していましたが、坂下が多忙のため今号より私、卯月四郎と峰尾俊彦(id:mine-o)の共同編集という形で引き継ぐことになりました。よろしくお願いします。
 委託先の「ぼっちーず」では『ぼっち本』を頒布するそうですので、お立ち寄りの際はぜひ合わせてご覧いただければ幸いです。


 今号の目次は以下のようになります。


 今回の5Mではライトノベル作家十文字青の特集を行います。
 なぜ今十文字青なのか? 十文字青は2004年に薔薇のマリアでデビューして以来、同シリーズをコンスタントに発表してきましたが、昨年から今年にかけてANGEL+DIVE『いつも心に剣を』『ばけてろ』と多くの新シリーズを開始し、今年の出版点数はなんと13冊(!)にも上っています。さらに今年の7月に出版された『ぷりるん。〜特殊相対性幸福論序説〜』は一種の怪作としてネット上で話題となりました。十文字青は今大きくその存在感を高めており、現在のライトノベルを語るにあたって無視できない作家です。
 しかしこのような決まり文句を述べるのはこのくらいでやめましょう。今回の特集が行われることになったのは『5M』のメンバーの多くがほぼ同時にこの作家に注目したためであり、そして私たちがこの作家のどこに惹きつけられたのかはそれぞれの原稿の中で初めて明確になったのですから。各原稿の紹介に移りましょう。


 十文字青という作家がいかなる固有性を持っているのか知るにはまず夜鷹明「十文字青の声の諸相」を見るのが良いでしょう。十文字作品の特性、それは登場人物たちによるモノローグの奔流であり、この論考ではそれをミハイル・バフチンドストエフスキー作品に見出した「ポリフォニー」との比較において読み解いています。一人の語りの中にも他者の意識がとめどなく混入し、語りが暴走・拡大していくこと(=ポリフォニー)が十文字作品にはある意味でドストエフスキー以上にラジカルな形で見られると夜鷹は言います。
 もちろんそれは十文字青だけが持つ特異性というわけではなく、他の現代作家、例えば舞城王太郎の作品などにも見出せる性質でしょうが、こうした観点から夜鷹はそれぞれの十文字作品を「声」というものに注目して丁寧に読み解いていきます(その丁寧さはクロスレビューにも表れています)。各作品に寄り添って進んでいくこの論考には明確な結論というものはありませんが、十文字青の作品を一筋の糸によって繋ぎ合わせていく試みがここにあります。


 卯月四郎「愛の遠近法的倒錯――『ぷりるん。』について」では『ぷりるん。』という作品をぷりるんというヒロインにのみ焦点を合わせて論じており、十文字青作品の全体像を語ろうとした夜鷹とは逆に、極めて問いを限定しています。またこの論考はある意味では3つの論考の中で最もベタなものです。「愛とは何か?」ということを大真面目に語ってしまっているのですから。裏テーマは「bot萌え」だったりするのですが、なぜ私はぷりるんやbotといった空虚なはずの存在に惹かれるのか、という極めて実存的な問いが、ロジカルを装った読解の背後に透けて見えてしまうかもしれません。ところでこの論考にも夜鷹の論考と同様に「声」というキーワードが登場します。空虚な存在があるとき突然語り出す声に私たちは様々なものを聴きとってしまう。それは恐らくキャラクターの存在論にも繋がる問題でしょう。


 藤原斎「ぼくら虫けらどもの姦しい孤独の果て」は上記二つの論考とは全くスタイルを異にします。十文字作品におけるモノローグに着目している点では夜鷹と共通していますが、藤原のこの断章形式で綴られた極めて密度の高い文章自体が彼のモノローグの連鎖です。そしてここでは十文字青の原点と言える新人賞受賞作『純潔ブルースプリング』と『ぷりるん。』を比較して論じています。群像劇である『純潔』と単一視点の一人称である『ぷりるん。』、「好き」という言葉を発してしまう『ぷりるん。』と最後まで言わない『純潔』。その対比から見えて来るもの。そして藤原は言葉を発すること、本を読むこと、文章を書くことについて語り、語り、語り続けます。


 以上の3つの論考はスタイルや着眼点こそ違えど、何らかの形で「声」(≒言葉を発すること)について語っていることで共通しています。
 声。私たちは今回十文字青氏へのインタビューを行いました。恐らく私たちは十文字作品のキャラクターたちの声の群れを通じて、作家自身の声を聴いたような気がしてしまったのでしょう。だからこそ今回私たちはこの特集を組み、そしてインタビューによって十文字氏本人の声(チャットではありますが)を読者にお届けしたいと思いました。
 内容は、路上の弾き語りをしていた学生時代から作家になるまでの経緯、「死」や「孤独」といったテーマへのこだわり、怪作『ぷりるん。』がいかに書かれたかなど。「書く以外に、したいことがありません」という氏の言葉には、陳腐ですが「全身小説家」といった言葉が思い浮かびます。また十文字氏の著作のあとがきやブログBRAIN Xを読んだことのある方はご存じのように、十文字氏の語りはそれ自体が魅力的な独特のリズムを持っています。著作を読んだことのない方にもぜひ一読していただきたいインタビューです。
 また十文字氏自身によって描かれた『薔薇のマリア』主人公マリアのとても素敵で可愛らしいイラストも掲載してます。ファンの方はぜひ!


 藤原斎×峰尾俊彦「対談・ライトノベルライトノベルの夢を見るか?」十文字青特集の補完的な対談となっています。
 十文字青というライトノベルという場の中でも極めて強烈な作家性を持った作家を私たちは特集しましたが、しかしその一方で藤原斎が「ファクトリー文学論、それより俺の妹はこんなに可愛い」(『5M vol.02』収録)で「ファクトリー化」という言葉で表わしたような、あるいは「ラノベ作家魔改造」と呼ばれるような、一見すると個性の抑圧、画一化、縮小再生産といったネガティヴにしか捉えられないような流れが明らかに存在します。しかし単にそうした「いかにもラノベ的」な作品を批判し、時折出てくる尖った個性の作家(十文字青もその一人でしょう)を称揚するだけでいいのでしょうか。
 もちろん、そもそも「ライトノベルをテクストとして丹念に読む」ということ自体が今は決して盛んに行われているわけではありません。だからこそ我々は十文字青の作品群を緻密に論じたつもりです。
 しかしそれだけでは私たちはライトノベルという場の環境の効果を正確に捉えることはできず、ライトノベルについての語りの場の閉塞を招くのではないでしょうか。そこでこの対談では徹底的に「ラノベ的」で「貧しい」作品を読み込むことで、現在のライトノベルの環境、そしてそこから見えてくる私たちライトノベルの読者や作家の実存について語ります。 
 藤原と峰尾がまず論じるのは、平坂読ラノベ部杉井光『ばけらの!』本田透ライトノベルの楽しい書き方箕崎准『えでぃっと!―ライトノベルの本当の作り方?!』田口一『三流木萌花は名担当!』壱月龍一『ラ・のべつまくなし』といった、ライトノベルを作中で扱っている自己言及的ライトノベルたちです。ライトノベル界の閉塞・縮小再生産をもっとも象徴するかのようなこれらの作品に見出される戦略について二人は分析します。
 しかし二人は単純に今よく言われる言説を反転させ、それらの作品を肯定するロジックを作ろうとするわけではない。むしろそこで発見するのはそれらの作品たちの「貧しさ」の中にも垣間見える多様性です。
 そして二人が最も重要視する作品が伏見つかさ俺の妹がこんなに可愛いわけがないです。そして『俺妹』が象徴する「ラノベ的なるもの」が確立されたからこそ森田季節『桜木メルトの恋禁術』川岸殴魚『やむなく覚醒!! 邪神大沼原田源五郎『今日もオカリナを吹く予定はない』のようなテクニカルな作品たちが現れる。
 それでもライトノベルが縮小再生産していると言えるのか? そんなことを言っている間にまずは新たな地図を描いてみるべきではないのか?
 現在のライトノベルの全体像を語ろうとしたがためにかなり雑多な構成になっていますが、しかし今いかにライトノベルを読むかということのヒントは盛り沢山な対談になっています。
 なお、今回の対談のきっかけとなった藤原斎「ファクトリー文学論、それより俺の妹はこんなに可愛い」は近日ネット上で公開予定なのでよろしければそれも合わせてどうぞ。


 渡辺寂「プレイヤーキャラクター試論」が私たちに教えるのは、プレイヤー(=私たち)とプレイヤーキャラクター(=「ゲーム外にいるプレイヤーによって入力された命令をゲームシステム内で実行するキャラクター」)との間には決定的な断絶、暗い深淵が存在するという事実です。
 私たちはゲームをプレイしている際、主人公に感情移入、あるいは同一化しているのだとよく言います。しかしそれは自明なことでしょうか? 渡辺が明らかにするのはその認識の枠組の歴史性です。そうした認識を私たちに抱かせるのにどれほどの創意工夫に満ちた装置が必要だったか。渡辺はそのことをドラゴンクエストタクティクスオウガ『ONE 〜輝く季節へ〜』といった傑作ゲームたちを分析することで示し、プレイヤーキャラクターという極めて微妙な概念に迫ります。


 平谷月路(Thir)「映画『WALL・E』&『ATOM』論」は本誌の中で唯一作品を社会学的知見を主に用いて分析している論考です。両作品に見られるディストピアの光景を格差社会化や社会への不信感といった現代の問題を浮き彫りにする鏡として捉え、ウォーリーやアトムといった境界的な存在が見せる未来への希望をバラク・オバマ米大統領へと重ね合わせています。


 月読絵空「空想の局所的具現化-SHORT Ver.-」について。萌え4コマ論の旗手として注目される月読絵空の本気を見せた10000字の力作です。cosMo×真優『少女の空想庭園+』上海アリス幻樂団東方ProjectTYPE-MOON月姫ざら『ふおんコネクト!といった作品たちを縦横無尽に駆け巡り、言葉のハイパーリンクを張り巡らせることによってどこまでも飛翔するかのごときその思考に易々とついていける人は少ないでしょう。しかしこの論考が主張していることの中心は、「内面」の一貫性などというものに未だに縛られている私たちのキャラクターという存在の捉え方は粗雑過ぎるということです。そこで絵空が提唱するのは「局所的に定義されたキャラクター」という概念です。そしてそれら局所的に定義されたキャラを張り合わせ、いかにして大域的なキャラクターが立ち上がるのか。そのような問題設定こそが不可欠であり、そうしたキャラクターの捉え方をしない限り、萌え4コマを始めとした現代のキャラクター文化を精確に評価することは不可能だと絵空は言います。本論によって私たちのキャラクターへの認識は大きく書き換わるでしょう。


 さぼてんヨーグルト「弱者の癒学 第2回 生きるために」は連載第一回は成年コミックのアニメ化の可能性を論じるメディア論的なものであったのに対し、今回は小林尽夏のあらし!田中ユタカ『愛しのかな』の二つの作品論からなっています。生者と幽霊との関係を描いたこの二つの作品を通じて、さぼてんは「誰かに存在を認めてもらわなければ私たちは生きていくことができない」というシンプルですがそれゆえに力強いメッセージを発します。また現在なぜ幽霊が非日常ではなく、日常の延長としてしばしば描かれるようになったかということの理由の分析も行われています。


 真悠信彦「オカルトに騙されないためのオカルト入門 第3回 スウェーデンボルグ、霊界を見てきた科学者」はオカルトの基礎教養を明瞭に解説する連載の第三回で、前回のユング論に引き続き、スウェーデンボルグというオカルトの大物を扱っています。ドストエフスキーやカントも評価したというその神秘学の概要や、彼の生きた時代背景、その生涯などについてまとめられています。また、その人間的魅力を表わすエピソードなども紹介されており、オカルトに興味を持たない読者もスウェーデンボルグという人間には惹かれるかもしれません。


 以上、各論考の紹介でした。それでは文学フリマではよろしくお願いします。

「第九回文学フリマ
開催日 2009年12月 6日(日)
時間 開場11:00〜終了16:00(予定)
会場 大田区産業プラザPiO 
京浜急行本線 京急蒲田駅 徒歩 3分、JR京浜東北線 蒲田駅 徒歩13分
http://bunfree.net/